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1998.1.27までの近況
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研究
金出先生の(Virtualized Reality)というプロジェクトで、51個のカメラを半球
上に取り付けた3Dスタジオ(写真)があり、これに関する研究を行っています。現在、プロジェクト
のメンバーは、Peter 君、Sundar君、というそれぞれPh.D. Cadidateの学生が2名と、訪問研究員の私の3名です。Peter君は
このプロジェクトに最初から参加しており、Ph.D.取得ももうすぐ、という状況の
非常に頭の良い男です。また、Sundar君は、日本でいうと修士課程に相当する
研究を別のテーマで既に終えたところでこのプロジェクトに参加して1年、 というところです。年齢的には私が最年長ということになりますが、プロジェクト
の中での立場としては、Peter君がリーダ的存在で、私は彼から教えてもらう ことだらけ、という状況にあります。
プロジェクトの進行に並行して取り組んでいるテーマは、「対象の3次元 構造を考慮したレンダリングテクスチャの超解像」といったところでしょうか。
詳細についての説明はここではしませんが、最初の結果が出てきたところです(研究のページ参照)。
一方、プロジェクト全体として、97年12月末までに制作する必要のあった映像の作成に
参加しました。12月末のクリスマスまず直前は、CMUで最初の徹夜をしました。
いつでも車で帰宅できる環境ですから、以前は慶應の矢上校舎に良く泊まりましたが、CMUに泊まる(寝る)ということはありえません。
下の写真は、僕個人に与えられたスペースです。パーティションで仕切られている広さ約1坪強の空間です。慶應の研究室にあった個人スペースより一回り広い感じです。ここで論文を読んだり、研究のアイデアを考えたり、落ち着いて仕事ができます。
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廊下のような部屋に、仕切りで仕切られている。 |
個人用スペースの机。左にあるのがSGIのINDY。 |
渡米後のあれやこれや
こちらに来て、予定通りのアパートに住んで、予定通り、帰国直前の同じ研究所の
人から車(92年アコード)を買い、と順調に生活の立ち上げをしました。順調に
とは言っても、まず面倒だったのが、Social Security Number (SSN)の入手まで
10日間ほどかかったことです。この番号は、まあ、住民票登録みたいなもので、
これがないと何かと最初の手続きが不便になります。これがらみで困ったことは、
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カーネギーメロン大(CMU)の駐車場の権利を手に入れるために、SSNが必要だっ
たので、最初は毎日5ドルの有料駐車場に停めなくてはならなかった。とはいっ
ても、駐車場の権利(年間権利)も有料で、840ドルもするのであまり大差ないで
すが。しかし、訪問者とはいえ、勤務先の駐車場にこんなに払う必要があるのにはびっくり。
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携帯電話を持とうとしたのですが、SSNが無いと持てませんでした。しかも、ク
レジットヒストリー(クレジットカードなどの履歴)が無いので、保証料として400
ドル×2のデポジットを取られました。
まあ、そんな感じで、ちょっとした困難をクリアしながら、まあ、順調に暮らし
の立ち上げはできました。
自動車の通勤
さて、妻は、僕の通うCMUのとなりにある、ピッツバーグ大学のELI(English Language
Instituteの略?)に通いました。毎日、住んでいるアパートから、大 学のあるエリアまで、朝の渋滞時には45分、帰りの空いた時間帯には25分のドラ
イブです。距離(20km)の割には時間がかからないのは、その大半がハイウエ
イを走るからです。犬の飼えるアパートを求めて郊外に住んでいるので、普通の
人がせいぜい車で20分圏内の近いところに住んでいるのに比べて遠いのですが、
日本に居たときに比べれば近いものです。日によっては、3時ごろ授業の終わる
妻を家に送り届けて、また研究室に戻る、という 約1時間の "Daytime Trip"
をしています。(一緒に研究をしている博士課程の学生が、この僕の習慣をそう
呼んでいます)
スキー・スノボ
スノボーを始めました。CMUの友人にスノボーを薦められ、この機会を 逃すと一生しないだろう、と思って、通販でスノボの道具を買い揃えました。
最初は、ピッツバーグから東に車で1時間ほど行ったところにあるスキー場 に2回ほど通ってマスターしました。スノボーは、32にもなって始めたので多少不安がありましたが、スキーの感覚を
応用できるので、なんとかマスターできました。スキーにくらべてブーツが柔らかい
のが良いです。
国内旅行
年末にLA(ピッツバーグから飛行機で5時間)に行き、LA から車で6時間も走ったところにある、マンモススキー場というところにスノー
ボードをしに行きました。LA観光は一日で、大混雑のUniversal Studioに行きま
した。なんで、そんな遠いところにスキー、じゃなくてスノボーしに行ったか、っ
て、誘ってくれたCMUの友人(日本の企業からの訪問研究員)の彼女の親がLAに住
んでて、彼がその彼女を連れていく、という目的があったからでした。
ゴルフ
こちらにきて、ついに左利 き用のゴルフクラブを買いました。120ドルのセットです。でも、まだコース2回、
打ち放し1回しかやってません。今は冬で、ゴルフができる雰囲気ではありませ
んが、また夏になったらやる機会も増えるでしょう。しかし、研究所内の日本人
をあつめたコンペ(10月にやった)では、150たたきました。
英語
妻は、1月からはピッツバーグ大学の正式な学生になりました。ポスト学士コースと
いうのがあって、そこで幾つかの単位をとります。社会学を専攻するようです。
僕は、おなじ研究プロジェクトのメンバーがCMUの博士課程の学生なので、彼らと
は英語で話しますし、彼らを交えてアドバイザの金出先生と話すときも英語です
が、それ以外はほとんど英語を使いませんので、相変わらず英語がヘタクソで困っ
ていますが、妻の方は、英語で授業を聞き、英語で友人と話し、しかも素質が文
系なので、見る見るうちに英語がうまくなっているようです。一緒に映画を見て
いても、詳細は妻に聞く羽目に。。。
香港行き失敗
ACCVという学会が香港であり、出席するはずだったのですが、トンでもないことが起こり、結局香港行きは諦めざるを得ない状況に陥れられてしまいました。
予定のコースは、UAを使って、 ピッツバーグ(8am)−(90min)−ニューヨーク(1145am)−成田−香港
でした。 しかし、まず朝ピッツバーグを出るときにニューヨークの霧の ため4時間飛行機が遅れました。このため、ニューヨーク発の成田経由
香港行きに乗れませんでした。このとき、同じ飛行機に全く同じ予定で 香港に行くという男が居て、この人と共にUAのカウンターに行って、
「どうすれば良いの?」と聞きました。この時、この男は、同じ日の夜8時45分
発の香港行きのキャセイパシフィックの便があることを知っており、この 便に振り替えてもらおうとしていました。UAの係り員は、「君も同じ
キャセイの便に振り替える?」というので、そうしてもらうことにして、 無事、振り替え用の券をもらうことができました。
これで行ければ香港に予定より9時間遅れで着ける!!と気を取り直して、
預けた荷物をキャセイに送ってもらいました。。。しかし、これが不幸の 始まりとは。。。。
キャセイの受付カウンタに行くと、「君のは乗れない」と言われました。 もう一人の例の男は乗れるのにどうして?と聞くと、彼はビジネスクラスだから
良いが、君のはエコノミーで、エコノミーは満席だから。とのこと。 しくしく、世の中は金らしい。UAの言うことと違うので、UAに文句付けに
戻ったところ、「キャセイの係り員は嘘吐きだ。今、電話で確認してやる。 ・・・・よし、確認した。君の席は確保されてる」といわれて、キャセイの
カウンターのあるターミナルまでのタクシー券をもらって再度キャセイへ。 しかし、キャセイでは、同じことを言われて、キャンセル待ち以外乗せないよ、
と冷たく言われる始末。スーパーバイザといわれる恐いおばさんにも 訴えましたが取りつく島もありません。結局、
キャンセル待ちも乗れずに、疲れ果て、再度UAの カウンターに行ったのでした。しかし、僕の荷物は何処へ?UAにも無いし、
キャセイにもありません。もう夜10時です。家を朝6時に出て、16時間 経ったのに、まだニューヨークです。この空港には、10時間ぐらいうろうろ
したことになります。
結局、次の日の同じ便に乗ることになり、 ニューヨークに一泊しました。出席予定の学会を1日失いましたが、
まあ我慢我慢。
さて、次の日、気分も新たに、荷物探しから始めました。しかし、ありません。
どうなってるのでしょう。結局、既に香港に行ったのではないか?という UAの係員の話を信じて、荷物は諦めて、1145amの便に乗ろうと、長いチェックインの
行列に並び、ようやくボーディングパスを手にして、待ち合いエリアに いました。もうそろそろ搭乗かな、と思っていた矢先、
「エンジントラブルで今日は欠航です。明日の便に乗ってもらいます。」 東京経由ですから、沢山の日本人は不満を漏らしながらもやむなく諦めて
います。一部の人は、もう一便ある東京行き(しかし香港は行かない) の残りの数席をめぐって、争うようにカウンタに集まっています。
しかも、明日になっても、当然元々同じ便に予約してる人たちが優先 ですから、必ずしも同じ便に乗れるとも限らないという噂も流れています。
こんなことがあるのでしょうか。とほほ。またも1日待つのでしょうか? もはや、香港に行く目的をほとんど失った私は、
旅客の対応係にピッツバーグまで帰る便のチケットをもらい、 結局ピッツバーグに戻るしかありませんでした。
しかし、チェックインした荷物には再会できないまま、家に帰ってきたのでした。その荷物は、それから2週間後の夜11時過ぎに突然届けられました。
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